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わが国の原子力発電の歩み

宅間正夫

(社)日本原子力産業会議 副会長

(放射線教育Vol.9,No.1に掲載のもの)
 

[要約]わが国の原子力発電について、海外の状況に触れながら、限られた紙面の中で過去を振り返り、現在を直視し、将来を展望してみる。

 以下の7節に分けて述べる。

1.夢と期待の技術に挑戦 2.原子力技術の導入 3.軽水炉による原子力発電のスタート 4.国内自主技術による軽水炉技術の定着と日本型プラントの開発へ 5.原子炉事故からの教訓 6.わが国の原子力発電の今後 7.低迷を克服して新たな飛躍を目指すわが国の原子力発電。

 

1. 夢と期待の技術に挑戦

 わが国の原子力発電は、ほぼ半世紀前の1953年(昭和28年)12月の国連総会における米国アイゼンハワー大統領の「原子力平和利用提案」(「Atoms for Peace」)の演説から始まった。この演説がおこなわれた背景には、米国原子力産業界の圧力だとか米国の原子力技術の独占の意図だといった説があるが、真意は、第二次世界大戦の早期終結と平和の到来を望んで開発したはずの原爆が広島・長崎で実際に使われたときの惨禍を目の当たりに見て、原爆開発に当たった科学者・技術者たちの深い悔恨が、国際管理の下に原子力エネルギーを平和利用することによって真の世界平和を実現したいという強い意志になってあらたれたもの、と考えられる。旧ソ連の反対で否決された、原子力の国際管理を提案した終戦直後の1946年の国連での米国の「バルーク」提案がこの背景にあると思われるのである。

 わが国では19458月の原爆から10年も経っていない時期であるにもかかわらず、1951年に漫画「鉄腕アトム」が登場したように、原子力エネルギーが夢と期待の時代であった。

 これが、原子力という科学技術とその社会への適用において、「放射能災害の防止」と「平和利用に限定」に最重点をおくこと、さらにその科学技術を担う専門家の倫理と行動を「自主・民主・公開」原則によって規定することなどを大前提に、国連演説のわずか2年後の1955年の「原子力基本法」の成立につながった。

 1945815日の終戦後、わが国は、経済・産業の復興のために石炭と鉄鋼産業への傾斜投資による増産とそれを基にした電力増産をおこなった。

1951年には戦時中から続いた電力の国家管理(国営の日本発送電会社と民営の9配電会社の体制)が終り、電気事業再編成によって現在の発送配電一貫の民営9電力会社(現在は沖縄電力を加えて10社)と国営の電源開発会社(現在は民営化)が誕生した。供給区域独占であるが、当時は水力発電が主であったため、水力発電可能地点の分布や戦前からの水利権・既設送電線の存在などが考慮されて、発電所の立地は供給区域に拘束されないこととなった。これが後に原子力発電所が技術的・社会的な立地事情から自社の供給区域外に立地されるケースを生むこととなった。

戦後の電力事情は極めて悪く、停電や電休日などが恒常的であったため、これら電力会社は発足早々から「白い石炭」といわれた大規模水力発電や石炭火力の新増設に必死に取り組んでいた。まさにこの頃に「原子力平和利用」すなわち「原子力発電」への道の可能性が開かれたのである。中東の豊富で安価な石油はまだ世界市場に登場していない。

戦前、資本主義的経済発展を目指したわが国の国内エネルギー資源の不足が、市場開拓とあいまって力による国外進出の一因ともなり、太平洋戦争に突入していった苦い歴史を顧みたとき、戦後復興の鍵となる電力増産に向けてこの新しい技術「原子力発電」への挑戦は、国家としても、電力会社にとっても、喫緊の課題だったのである。

 

2. 原子力技術の導入

 米国はその頃、戦後の好景気の中で豊富な資金と原爆開発を基盤とした高い技術力をもっていたため、いくつかの国立研究所や民間のメーカーがさまざまな型式の原子炉や設備をつくって実験研究を行い、原子力発電技術の可能性や最適な原子炉の模索、安全性の確認などを進めていた。

 わが国でも、戦前には原子物理学分野では世界的レベルの研究もなされていたが、原子力発電技術については、1952年のサンフランシスコ平和条約(日米講和条約)で独立を回復した後、米国の対日原子力研究支援によって米国から導入した技術と貸与されたウランによって、1956茨城県東海村に設立された日本原子力研究所で原子力発電の研究が始められた。同研究所は小型研究用原子炉JRR1,2,3および動力試験炉JPDRを建設し、これらはわが国の原子力発電の商用化と国産化、ならびにそれを担う技術者の育成に大きく寄与した。

 1954年には旧ソ連が独自のチャンネル型黒鉛減速軽水沸騰水炉で世界初の原子力発電所(5000キロワット)を完成させた。これを急速に大型化した原子炉が後に(1986年)チェルノブイルで大事故をを起こしている。1956年には英国が世界最初の商業発電用の黒鉛減速炭酸ガス冷却炉(コルダーホール改良型炉、6万キロワット)を完成させていた。

 そこでわが国は、わが国同様エネルギー資源の乏しい英国(北海油田はまだ発見されていない)が開発したこの型式の炉を輸入することとなった。その建設主体として、いわゆる「正力・河野論争」といわれる民間会社か国営会社かの対立があったが、最終的には民営色の強い国策会社「日本原子力発電会社」が官民により設立された。國の重要エネルギー政策である原子力発電を民営の効率経営のもとでおこなうというこの方針は、原子力開発におけるわが国のいわゆる「国策民営」の嚆矢、といってもよい。これがその後に続く民営9電力会社による大規模な原子力発電開発の進展につながっていった。

 また、原子力プラントメーカーなどの民間の原子力産業においても、高度かつ広範囲な原子力技術にかかわる技術の総合化と、巨額な必要資金の調達・結集を目指して5つの原子力グループが結成されていた。三菱グループ、住友グループ、三井グループ、東京原子力グループおよび第一原子力グループである。そして、わが国最初の商用炉は富士電機・第一原子力グループを主契約者とする日本原子力発電会社による英国コルダーホール型ガス炉発電プラントであったが、それに続く米国型軽水炉発電プラントの建設にあたっては、初号機の輸入に続く国産化では、加圧水炉(PWR)は米国ウエステイングハウス(WH)社と技術提携した三菱重工が、また沸騰水炉(BWR)は同じく米国のジェネラルエレクトリック社(GE)と提携した東芝と日立が、それぞれ主契約者となっていった。その他の原子力関連の産業・企業も原子燃料や機器製造、建設工事・保守工事などの広範な分野に参加して質の高い仕事をしている。

 このようにしてわが国初の商業用原子力プラント、東海原子力発電所(166000キロワット)は1960年着工、1966年に運転を開始し、32年近く運転されて19933月に停止、現在解体工事中である。

 

 ここで、草創期の原子力発電におけるわが国への英国の影響や諸外国の原子力の初期事情について触れておく。

 米国で開発された軽水炉の今日の隆盛を見れば、なぜわが国が初めての発電炉として英国型の天然ウラン燃料の炉を選択したのか、疑問に思う向きもあろう。しかし当時の日本の見方は、米国は原爆を開発したが原子力発電の開発には遅れている、英国は核兵器用のプルトニウム生産炉に適した天然ウラン・黒鉛減速炉をいち早く商業用に改良したので原子力発電では英国こそが世界のトップ、というものであった。商用化のためにマグネシウム合金を使った原子燃料を新たに開発したのでマグノックス炉ともいわれる。こんなことからも当時のわが国が英国の原子力技術を高く評価していたのであろう。

さらに、現在でこそウラン濃縮事業は商業化されているが、当時は濃縮技術は米国の独占であり、このため英国は天然ウランを使う原子炉を選択せざるを得なかった。石炭しかないという国内エネルギー資源事情から言えば、当時のわが国も英国と同じであったため、英国型天然ウラン炉を選択したもの、と考えられる。英国が世界に先駆けて第1500万キロワットという意欲的な原子力開発計画を公表していた。

また国内資源に乏しい英国は原子力発電を準国産エネルギーと位置づけて、当初から使用済み燃料の再処理と高速炉によるプルトニウム増殖利用を原子力開発の中軸とし、途中、これを補完するSGHWR(重水減速水冷却炉)も開発するが、その後北海油田の発見や俗に英国病といわれる経済の低迷によって、この炉も高速炉も開発が中止された。わが国もある面英国を手本にして、軽水炉(熱中性子炉)から高速炉への路線の中でこれを補完するATR(新型転換炉、英国のSGHWRと類似)の原型炉を自主開発するが、その後の軽水炉の成熟のなかで必要性が薄れてきたため、実証炉建設に至らなかった。しかしわが国は高速炉については、実験炉「常陽」から原型炉「もんじゅ」まで開発してきた。「もんじゅ」は10年前の二次系配管のナトリウム漏洩事故以来停止していたが、再開に向けて改造工事中である。

国内にウラン資源を豊富に持つカナダは英国と同じく天然ウランを使った原子炉を選択したが、天然ウランをもっとも効率よく使うために減速材に重水を採用して独自の「CANDU」炉を開発し、海外にも輸出している。「CANDU」とは「カナダ型重水炉」の意味の他に「われわれもできる(CAN DO)」という意味があるそうだ。

フランスもはじめは天然ウラン燃料の黒鉛減速炭酸ガス冷却炉を開発したが、大戦前の植民地を失うとともに国内エネルギー資源の乏しい國として輸入の化石燃料に頼らずに、新設発電プラントをすべて原子力とする決断に基づいて、米国から導入した軽水炉技術を国産化し、現在は電力供給の75%を原子力でまかなっている。

 

3. 軽水炉による原子力発電のスタート

 昭和30(1955)代に入ると米国は、それまでの政府と民間による技術開発の成果として商業用プラント向けにガス炉に比べてコンパクトでかつ出力のスケールメリットを追求した大型の軽水炉を、GE社は沸騰水炉((BWR)WH社は加圧水炉(PWR)として市場に参入してきた。PWRの商用炉1号機はシッピングポート1号(10万キロワット、1957.12運転開始、ペンシルバニア州)、BWRのそれはドレスデン1号(20万キロワット、1960.6運転開始、イリノイ州)である。

 米国での初期の軽水炉プラントの経済性の実績などを見て、わが国の電気事業者は、英国型炉の建設中の不具合などの経験からして軽水炉の導入に傾いていった。日本原子力発電会社による敦賀1号機(BWR357000キロワット、1970.3運転開始)の先駆的な導入に続き、関西電力美浜1号機(PWR34万キロワット、1970.11運転開始)、東京電力福島第一1号機(BWR46万キロワット、1971.3運転開始)が導入され、原子力発電の本格的な商業利用の時代に入った。

 電気事業者が高度経済成長期の電力需要の急増に対応するには、プラントの単機出力の増大にともなうスケールメリットに限界があったガス炉に代えて軽水炉が選択された、といえる。燃料を含む運転費に比べて設備など資本費の大きい原子力発電はスケールメリットを追及せざるを得ず、初期の3040万から急速に100万、130万キロワットへとスケールアップしていった。急増する電力需要に対して、燃料のウランの調達にもあまりわずらわされずに容易に出力アップできる濃縮ウランを使った軽水炉は最適な選択だった、ともいえよう。この点で天然ウランのガス炉は、スケールアップすればそれだけ発電設備も巨大になり、ウラン燃料の量も多くなる。まして化石燃料の火力発電ではスケールアップにともない燃料消費量は膨大になってしまう。

 PWRBWRとでは、同じ軽水炉であるため、技術面、経済面で本質的な違いはなく、その選択については、原子力導入に先行した火力発電プラントなど電力用機器の発受注を通じて培われたそれぞれの電気事業者とプラントメーカーとの歴史的な信頼関係が、PWRBWRか電気事業者の選択に少なからず影響していると考えられる。

 200412月末現在、世界の原子力発電プラントは434基、37920万キロワットで、その3分の2以上がPWRと、わが国ではBWRの方が多いが世界的にはPWRが主流になっている。その理由を推測すれば次のようにいえるだろう。原子炉は最初原子力潜水艦の動力に使われたが、それは、船の揺れを考慮して加圧して自由水面を無くしかつコンパクト化できる加圧水炉が採用された、その炉を陸上において発電用に使ったのがPWR型発電炉。それに対してBWRは最初から陸上設置の設計なので自由水面が許容され、無理にコンパクト化せずにPWRに比べて2分の1位の低い圧力の大量の水の中に原子炉をゆったりと置いたもの。それぞれに長所短所があるが本質的な違いは無い。技術的な面について1点触れるならば、原子炉から蒸気タービンに送られる主蒸気中の放射能を抑えるため、PWRは原子炉水(一次系)と主蒸気(二次系)を大型の蒸気発生器で分離しているためこの熱交換器の細管からの漏洩防止に万全を尽くし、BWRでは原子炉水が直接タービンに送られるので炉心の燃料の破損防止に万全をつくしている。PWRBWRの普及度の違いは、あえて言うなら前述のような電力会社の好みや信頼関係、あるいはPWRのメーカーWH社とBWRメーカーGE社の営業力の違いと言える。

 

 

4. 国内自主技術による軽水炉技術の定着と日本型原子力プラントの開発へ

 エネルギー資源に乏しいわが国は、ウラン資源についても同様に軽水炉の燃料もほとんど全量輸入に頼らざるを得ない。そのために、使用済みのウラン燃料を国内で再処理し、燃え残りのウランとプルトニウムを燃料資源としてリサイクルすることにより一度輸入したウランを国産資源に変えてゆくこと(準国産エネルギー資源化)は、わが国の原子力発電開発の当初からの國の方針であった(これは昨年閣議決定された原子力委員会の「原子力政策大綱」でも、六ヶ所再処理施設のアクテイブ試験入りを前に改めて再確認された)。

 このことは同時に、将来のわが国のエネルギーの中核となるべき原子力発電の技術、原子力プラントなどの機器・設備を基本的にすべて国産化して、自主技術化を目指すことでもあった。これは米国の軽水炉技術を導入し、国産化して国内原子力プラントメーカーを輸出産業として育てようとしていたドイツ、フランスの戦略と軌を一にするものであった。

 このため初期に米国から輸入した新鋭火力発電プラントの国産化戦略と同様に、初号機を輸入、2号機目は原則同じ設計で機器・設備を国産、3号機目以降から設計を含めすべてを国産化することとし、その過程で米国生まれの原子力技術を、建設主体である電気事業者が習得するとともに米国メーカーと国内メーカーに技術提携をしてもらって、国内技術の育成を図った。

 しかし急速に発展した新しい技術であったため、初期の商業用プラントにPWRBWRともにいくつかの初期故障が発生した。その時期が折りしも19731978年の石油危機に重なった。それに伴い世界的に石油火力の新設が原則禁止がルール化されたため、原子力発電は國の脱石油政策の中で石炭・天然ガスと並んで「脱石油3本柱」の重要なひとつと位置づけられたのである。

 このため初期故障を一刻も早く克服し、軽水炉発電技術の安全性・信頼性を向上させ、国内自主技術としての定着が急がれることとなり、産・官・学挙げての協力の下に1975年から1985年にかけての10年間、3次にわたって「軽水炉改良標準化計画」が展開された。この中で、従来米国技術に依存していた軽水炉にわが国の技術伝統や技術管理システムおよびわが国の研究・技術開発成果を適用して、いわば「日本の標準型軽水炉」へと育てていった。その成果が次第に、故障率低減、利用率向上、作業員線量減少などで世界トップレベルの運転実績となって表れ、さらにBWRユーザー・メーカーの国際的な共同作業による改良型沸騰水炉(ABWR)として結実し、世界最初の炉として東京電力の柏崎刈羽6・7号機(各136.5万キロワット、199697年運転開始)が建設されたのである。

 わが国では現在、54基、4850.7万キロワット、うちBWRABWR29基、2914.1万キロワット、PWR23基、1936.6万キロワットが運転している。

 

5. 原子炉事故からの教訓

 原子力発電にかかわる安全技術や設計思想に大きな影響を与えた2つの発電プラントの事故における主な教訓に焦点を絞って記してみる。

 19793月の米国スリーマイルアイランド2号機(PWR95.9万キロワット)の事故は、運転員の規則違反と設計の不備と運転員のプラント状況の誤認が重なって原子炉内の冷却水が失われたために燃料棒が過熱して多くの燃料棒が損傷したが、周辺への放射性物質の放出はわずかであった。この事故は「燃料棒を冷却する」ことには失敗したが「放射性物質の閉じ込めにはほぼ成功した、といえる事故であった。見方を変えると“技術”が発信した情報を“人間”が的確に受け止められず(炉内の水量の確認)、また“人間”が“技術”に適切に介入できなかった(自動運転した非常用炉心冷却ポンプをわざわざ手で止めた)ことが、最初の小さな計装系のトラブルを事故にまで拡大させてしまった、といえる。このために人間と機械との接点「マンーマシンインターフェース」の問題が、事故の教訓を踏まえて改めて真剣に再検討されてわが国はじめ世界中でプラントの制御室・監視制御盤・装置の大幅な改良につながった。

 19864月の旧ソ連チェルノブイル4号機(RBMK100万キロワット)の事故は、設計上の欠陥、不十分な深層防護設計、それに重大な運転マニュアル・運転規則違反が重なって、炉内の核分裂が急増したにもかかわらずこれを急速停止できず、これによって破損した圧力管から漏れ出した高温の水蒸気が、これも高温の黒鉛減速材と反応して水蒸気爆発・水素爆発を起こし、原子炉全体が破壊されて放射性物質が周辺環境に大量に放出された事故である。これは「核分裂を止めること」に失敗して、その結果「放射性物質の閉じ込め機能」までも失われてしまったもの、といえる。事故原因にはヒューマンファクター、特に旧ソ連の原子力開発体制下にあった技術者・関係者の心と行動の要因が極めて大きいとされて、原子力に携わる世界中の関係者に「安全を最大の目標」と改めて認識を深めるよう「原子力安全文化」を徹底させる努力が開始された。これは“技術”を扱う“人間”に対して「技術を扱う心」にまで踏み込んだ安全の施策が必要であることを示したものといえる。

 原子力発電の安全の3原則「止める・冷やす・閉じ込める」のそれぞれについて、原子力関係者は残念ながらこうした失敗を経験した、という意味でこの二つの事故はその後の原子力発電の安全にとって極めて大きな教訓となったのである。その結果チェルノブイル事故後、民営・官営を問わず各国で実際にプラントの運営に当たる事業者による「原子力安全文化の浸透と向上」のための国際的なネットワーク組織「世界原子力発電事業者協会(WANO)」が発足し、事業者同志の迅速な情報交換・相互研修など「世界の事業者による原子力安全文化の共有」が進んでいる。またチェルノブイル事故後、各国政府ベースの既存の「国際原子力機関(IAEA)」の安全活動に加えて新たに「原子力安全条約」が国際条約として締結されるなど、原子力の国際的な安全性向上に向けたフレームワークができている。

 原子力発電所の事故ではないが、19999月の東海村での原子燃料加工施設でのJCO

事故は、安全第一に細心の注意を払うべき作業にあたっての技術者・関係者の技術を扱う専門家としての倫理、および危険性を伴う事業の経営にあたる経営者としての倫理が問われ、その前後に起こった事業者のデータ改ざん問題とも合わせ、技術者倫理・経営者倫理の重要性が改めて浮き彫りにされ、日本原子力学会など学協会が倫理規定の整備などに取り組んできている。

 

6. わが国の原子力発電の今後

 「長期エネルギー見通し」(2004.10 総合資源エネルギー調査会需給部会)によると、2010年度における原子力発電によるエネルギー供給は8700万キロリッター(原油換算)で一次エネルギーの約15%、発電設備5014万キロワットで3872KWH、全電力量の約36.5%、このために今後10年で10から13基のプラント新設が必要、とされている。

 200510月、原子力委員会の「原子力政策大綱」(旧「原子力長期計画」)が史上はじめて閣議決定されて公表された。これには、具体的な目標として「2030年以後も原子力発電は総発電量の3040%程度という現在水準かそれ以上を目指すのが適切」、と記されており、また「2030年ごろからはじまると見られる既存発電炉のリプレースに関しては現行の軽水炉の改良型で、スケールメリットの観点から大型炉を中心とするが、需要規模、投資規模などから標準化された中型炉も選択肢となりうる」、とされている。

 電力自由化のもとで大型投資がやりにくい、しかし需要は小幅ではあるが着実に増加する、また温室効果ガスの排出抑制から脱炭素系燃料による発電へと電源の質の転換が迫られることなどから、原子力がこれに対応するためには中小型炉でかつスケールメリットを上回る「標準化による量産の経済的メリット、国際入札も含む調達の経済的メリットを追及し、さらには本質安全思想を基本としたつくりやすく、運転・保守しやすく、工場プレファブ化可能な、シンプルな設計」を、国外市場も視野に入れて、実現する必要がある。国際的な「第4世代原子炉開発」に見るようにその可能性は十分にある、と考えられる。

 「第4世代原子炉炉開発」は2030年ごろの実用化を目指して米国エネルギー省が提唱したもので、米国・日本・英国・フランス・カナダ・韓国・南アフリカ・スイス・ブラジル・アルゼンチンの10ケ国からなる第4世代国際フォーラム(GIF)によって進められている。臨界圧軽水冷却炉(SCWR)、ナトリウム冷却高速炉(SFR)、鉛合金冷却高速炉(LFR)、超高温ガス炉(VHTR)、ガス冷却高速炉(GFR)、溶融塩炉(MSR)の、6つの概念が選択されている。また国際原子力機関(IAEA)ベースではロシア、インドなどによる共同開発(INPRO)も進んでいる。

 燃料取替えが数10年に1度という原子力電池に類する原子炉の開発もわが国でおこなわれており、海外の関心を呼んでいる。

 また「原子力政策大綱」には高速炉について「2050年ごろからの商用ベースの導入を目指すが、遅れる場合には改良型軽水炉の導入を継続」とされている。

 技術的に成熟段階に達した現在の軽水炉も今後、不断の進化が進むであろう。高速炉も軽水炉との競合の中で一層の技術開発が進むであろう。現実にはウラン資源のうちのわずか0.7%のウラン235を燃料とする軽水炉と、99%以上のウラン238を利用できる高速炉が共存するハイブリッドで柔軟性ある原子力発電体系が比較的長く継続すると思われる。

 高速炉は増殖機能のみならず、軽水炉運転に伴って生じる長半減期の核種も燃料としてエネルギー化できるとともにこれらを短半減期化でき、これによって将来の地層処分における環境負荷を低減できる可能性がある。

 

7. 低迷を克服して新たな飛躍を目指すわが国の原子力発電

 わが国の原子力発電は先述のように、紆余曲折を経ながら半世紀経って軽水炉技術において一応の成熟に達した。しかし20世紀末になって残念ながら以下のような状況になってしまった。

@       成熟の過程で技術を囲い込んだ官民の閉鎖的な原子力界に生じた内部矛盾・制度疲労とその顕在化

A       この半世紀間に社会の仕組み・意識などが大きく変化したにもかかわらず、うちうちの専門家の閉鎖社会に閉じこもったがゆえに近年のこうした変化に鈍感で、対応を誤ったがゆえに生じた「社会と原子力」の不整合

B       本来公益的な技術であり産業である原子力について、電力自由化に直面した電気事業者が短期的視野に陥りがちで、半世紀前に行われた電気事業再編成で激しく論議されたような私企業としての公益を担う精神の希薄化

 こうしたことから、原子力と社会が次第に乖離し、原子力界は残念ながら世紀末に至って社会からの「技術に対する不安感」と「技術者・関係者に対する不信感」に直面することになってしまった。

 しかし物事は弁証法に言うように、発展の中に矛盾の芽が生まれ、これが克服されるなかに新たな発展の機会が生まれる、という。その意味で今の低迷は次の発展に向けての「創造的破壊」の段階にある、と考えられる。そして原子力技術・産業の発展の条件は、今、世界的にもその条件が整いつつある。

特記すべきは、20058月、米国はブッシュ政権下で「包括エネルギー法」が成立し、ここには“原子力ルネッサンス”に向けて軽水炉発電プラントの運転期間延長、出力増強、プラントの新増設などに向けた國の制度的な支援策、さらにカーター政権時代に封印された商業用再処理・プルトニウム利用についても技術開発に取り組む方向が言及されていることである。

こうした原子力の再活性化の「チャンスの前髪」をわが国の原子力界がつかめるか、つかむだけの気概があるか、であり、これに向けて民間原子力産業団体も大きな改革を進めており、これは原子力産業界全体の改革、そして原子力産業の基盤強化と再活性化につながっていくものと考えている。

 

 わが国の原子力発電は、ここ当面は安全を第一に既存の多くの発電設備の稼働率を向上させ、さらに高経年プラントのより有効かつ効率的な長期的活用を図る必要がある。このために運転・保守技術の技術的・制度的な高度化を達成し、これによって社会の信頼を回復し、社会の支持を得なければならない。

 

 50年前の世界人口は25億、現在は63億、そして50年後は90億といわれる。予想される資源制約・環境制約の克服をめぐる国際的・社会的な緊張を少しでも緩和し、世界の平和と地球上の生きとし生けるものの生命の持続性を維持するには、基本的に原子力技術・原子力エネルギーの賢明な活用無しには他に有力な手段はありえない。

 先述のようにわが国は、国内需要に向けて原子力開発を進めてきたと同時に、プラントメーカーなど原子力産業を育成してきた。上記のような地球規模・世界規模での原子力発電、発電のみならず淡水製造や水素製造の必要に応じるだけの実力はわが国にある。

 平和利用一筋で進めてきたわが国が、今、その技術や技術管理システム、人材の育成、発電プラントなどの国際的な展開を積極的に図ることは、わが国の国際貢献であり、国際的な責務と考えられるのである。

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