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4. 国内自主技術による軽水炉技術の定着と日本型原子力プラントの開発へ
 エネルギー資源に乏しいわが国は、ウラン資源についても同様に軽水炉の燃料もほとんど全量輸入に頼らざるを得ない。そのために、使用済みのウラン燃料を国内で再処理し、燃え残りのウランとプルトニウムを燃料資源としてリサイクルすることにより一度輸入したウランを国産資源に変えてゆくこと(準国産エネルギー資源化)は、わが国の原子力発電開発の当初からの國の方針であった(これは昨年閣議決定された原子力委員会の「原子力政策大綱」でも、六ヶ所再処理施設のアクテイブ試験入りを前に改めて再確認された)。

 このことは同時に、将来のわが国のエネルギーの中核となるべき原子力発電の技術、原子力プラントなどの機器・設備を基本的にすべて国産化して、自主技術化を目指すことでもあった。これは米国の軽水炉技術を導入し、国産化して国内原子力プラントメーカーを輸出産業として育てようとしていたドイツ、フランスの戦略と軌を一にするものであった。

 このため初期に米国から輸入した新鋭火力発電プラントの国産化戦略と同様に、初号機を輸入、2号機目は原則同じ設計で機器・設備を国産、3号機目以降から設計を含めすべてを国産化することとし、その過程で米国生まれの原子力技術を、建設主体である電気事業者が習得するとともに米国メーカーと国内メーカーに技術提携をしてもらって、国内技術の育成を図った。

 しかし急速に発展した新しい技術であったため、初期の商業用プラントにPWRBWRともにいくつかの初期故障が発生した。その時期が折りしも19731978年の石油危機に重なった。それに伴い世界的に石油火力の新設が原則禁止がルール化されたため、原子力発電は國の脱石油政策の中で石炭・天然ガスと並んで「脱石油3本柱」の重要なひとつと位置づけられたのである。

 このため初期故障を一刻も早く克服し、軽水炉発電技術の安全性・信頼性を向上させ、国内自主技術としての定着が急がれることとなり、産・官・学挙げての協力の下に1975年から1985年にかけての10年間、3次にわたって「軽水炉改良標準化計画」が展開された。この中で、従来米国技術に依存していた軽水炉にわが国の技術伝統や技術管理システムおよびわが国の研究・技術開発成果を適用して、いわば「日本の標準型軽水炉」へと育てていった。その成果が次第に、故障率低減、利用率向上、作業員線量減少などで世界トップレベルの運転実績となって表れ、さらにBWRユーザー・メーカーの国際的な共同作業による改良型沸騰水炉(ABWR)として結実し、世界最初の炉として東京電力の柏崎刈羽6・7号機(各136.5万キロワット、199697年運転開始)が建設されたのである。

 わが国では現在、54基、4850.7万キロワット、うちBWRABWR29基、2914.1万キロワット、PWR23基、1936.6万キロワットが運転している。

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